“あきらめない”その性格が人生を決める

1998/2/01

アトランタ・パラリンピックの表彰式で、入賞者が表彰台に上がる時、そのスロープの勾配により、中々台上に上がりきることが出来ない選手がいた。 2~3回繰り返しているうちに、車椅子の車輪が外れてしまった。
それでも誰も手を貸そうとしない。
選手は必死に体制を整え、悪戦苦闘の末、表彰台に上がった時、観衆も役員、選手も万来の拍手を送ったそうである….。 以前この話しを聞いて、私は感動した。
一人の人間として、一人のアスリートとして尊敬し、認めているからだろう。
日本では、障害者だからということで最初から手を貸してしまう。
人間として、選手として認めて貰えないことが悲しい…と障害者の方々は言っている。

今、私が「是非会いたい」と最も強く思っている人は、成田真由美さんです。
下半身不髄に加え、不整脈、高血圧症など満身創痍の身でアトランタ・パラリンピックの水泳で金メダル2個を含む、5個のメダルを獲得した選手です。
病気なんかとは全く無縁で、小学校時代は朝早く登校し、男の子に交じって野球をして、それから授業に出るという明るくて活発な少女で、小学校6年で身長が168センチもあった健康的な少女が突然発病したのが、中学入学直後だったそうです。
念願のバスケットボール部に入り、或る日朝起きたら膝がギシギシなって痛い。 そして痛みはひどくなる一方で、病院を転々としているうちに血流が止まって、膝下が紫色になってやっと分かった病名が脊髄炎。 とりあえず切断は避けられたけど、高熱は続くし、痛みはすごく、ただただ早く眠りたい、苦痛から逃れたいと死ぬ事ばかりを考えていた毎日だったそうです。
まったく両足の動かなくなった17歳の時、自分専用の車椅子が来た時に、二度と自分の足では歩けないという宣告を受けた、と思った。 そして病院から高校へ通学。 体育の時間などは気が付いたら、皆の足ばかり見ていたとのこと。
原因不明の高熱に悩まされるなど、症状が安定しないので20回以上も入退院を繰り返しながら、21歳まで殆ど病院暮らし。
23歳の時に水泳との出会いがあり、初めて水の中に入った時はすごく恐かった。 途中で立てないから必死で一ヶ月猛練習したら記録がどんどん伸びて、自分の中にある可能性に気づいて、非常に嬉しかったとのこと。
その後、プレ・パラリンピックに気楽に挑戦してみたら100メートル自由形など三種目で世界新が出て夢が膨らみ本番を前に医者の制止を聞かず猛特訓。 足首をひもで結んで、その先にバケツを付けたり、辛かったけど、もうその時は心臓なんかどうなってもいいと思ってやった。
100メートル自由形の予選が終わり、スタンドで応援中、暑さで倒れ、周囲は心配して棄権するように言ってくれたけど、出なかったら一生後悔すると思い、出場した。
50メートルのターンで一歩リード、残り5メートルはノーブレで世界新記録。
閉会式の翌日、26歳の誕生日を迎え、自分自身にとって最高のプレゼントとなった。
13歳で発病し、丁度13年、偶然だけどその感動は言葉に表せないほどだったとのことである。
障害者は決して特別な存在ではない。 目の悪い人が眼鏡をかけるのと同じ。
自分は足が悪いから車椅子に乗っているだけ…と成田さんは言っている。
人生を決めるのは、能力ではなくて性格である。
そして、最も大切な資質は、“あきらめない”という性格である…と先月号の冒頭に書いた。
改めて味わい深い言葉であると思った。