妙法にかなった“自分創り”をしよう

2006/11/01

『妙』とは、妙なる、美しき、という意味です。
『法』は、仏教では大切な言葉で、一言で言うと「いのちの真実のあり姿」を意味します。
『法』はサンズイに去ると書きます。
もともと水の有様をあらわす文字なのです。
どこにも停まらず、淀まず、ひっかからず・・・、絶えず流れて流れて、
次第に川幅は広くなり、そして、ついに、大海に入ります。
そこで、別の道をたどって帰って来た水とひとつに融合します。
そういう、いのちの真実のあり姿を『法』というのです。
ですから、『妙法』とは、
大きくなろう、もっと大きくなろう、伸びよう、さらに伸びよう、
決してくじけず、決してひるまず歩み続けるいのちの姿は何とすばらしいんでしょう、
何と美しいんでしょう、という讃嘆の言葉なのです。
『妙法』には、もう一つの意味があります。
水の流れは、こうでしかありえないという流れの道をつくって流れていきます。
どの水も最後は大海に達するわけですが、定規で描いたように一直線に
大海に到るわけではありません。
その水にふさわしい、おのづからなる流れ道があって
こうでしかありえないという最善、最高の道をたどって、大海に到るのです。
私たちのいのちの道もその通りなのです。
どの瞬間にも、こうでしかあり得ないという、いのちのたどり道があるのです。
そのいのちのたどり道のことを『法(のり)』というのです。
手の動きや足の運びでも、その刻々にこうでしかあり得ないという動き道があるのです。
その動き道通りにいのちが動きますと、その動きは実に美しいのです。
絶妙なのです。
これを『妙法』といいます。
動きどおりに動く練習を『作法』といい、動き道どおりに動けるようになれば
『作法にかなった』というのです。
いのちが『法』にかなった動き方ができるようになると、実に楽なのです。
楽々と絶妙のワザを次々繰り出して試合が出来るようになるのです。
法に乗って試合が出来るわけですから、『ノリにノッテ試合が出来る』わけなのです。
私達のいのちは何と素晴らしいんでしょう。
私達のいのちの運びは何と美しいんでしょう。
君には君だけの、仲間には、その人だけのいのちの運び道があります。
その運び道通りにいのちを運べたとき、
自分と仲間の人生は、最高の美の表現となるのです。
この話は、19歳で禅の世界に入門し、
禅の道を究めた人で、立花大敬氏の講話の抜粋です。
自分の人生を意義あるものにしていくためには
自分をどう創っていくかがポイントとなる。
身の丈にマッチした、自分サイズの“自分創り”をしていくことが大切である。
しかし私は “背伸びの部分を作る”ことも大事なことだと思っている。
自分をどう創っていくかについては正解がない。
だから、自分で考えて考えて思いを込めていくしか方法はない。
何事をやるにしてもスタートは一人きりだから「SELF HELP」(自助)の精神が重要で
自分が足りないものについては、他人の知恵を借りるなど柔軟性も持ちながら、
尚かつ、自分の信念を貫いていく。
そして「行動を起こさなければ、何も作り出すことは出来ない」という自覚を持って
何があっても明るく、前向きに物事を考えるように訓練する。
そしていつかは自分の夢をやり遂げたいという強い思いをもって
「作法にかなった」訓練をして、卓球の道を究めるよう努力をして
自分の人生を明るく、素晴らしく、美しくそして楽々と生きていこう。