心の友、荻村伊智朗氏との交友

2016/1/01

『心の友、荻村伊智朗氏との交友』

この児玉語録を書き始めて丸20年240号になりました。
20年という1つの区切りには、何故か数ヶ月前から、荻村伊智朗氏との交友について
書きたいな━と思っていました。

私は、卓球を通して体験したことが、企業経営にも活かされ、
現在の自分を創ってくれたと思っております。
だから私は、卓球界に対して、常に感謝の気持ちで、これからも、普及の面でも、
選手強化の面でも、少しでもお役に立てることが出来たらいいなと考えています。
そして、このように、私の人生を左右するような、
そして、骨の髄まで卓球にのめり込ませたキッカケを作ったのが心の友の荻村さんです。

1964年の暮れ、日本卓球協会から、翌65年の世界選手権リュブリアナ大会の監督に、
荻村さんと私が推挙されたという知らせが届いた。
荻村さんが31歳、私が29歳のときだった。
当時は、兄と始めた会社もヨチヨチ歩きの状態だったので、
迷った末、その要請を断ろうと思っていた。

丁度その頃、ある朝の6時に突然、荻村さんが私の自宅を訪ねてきた。
「児玉さん、仕事が大変だということは解っているけど、
是非一緒に日本のためにやってくれないか」と、凄い情熱で説得された。
朝に弱い荻村さんが自宅まで来て、必死の思いで私の心を揺さぶるように説得され、
結局引き受けることにした。

このときの経験を通して、卓球の真髄、奥深さ、物事に打ち込むことの素晴らしさを
心底から知ることができた。
一緒に仕事をすることによって、それまでは自分の経験とカンに頼る指導から、
理論に裏打ちされた、卓球技術の指導の眼を開かせてくれ、
その研究に対する熱意と努力に敬服させられた。

荻村さんと出会い、合宿生活や、世界選手権の大会中、その後の欧州遠征など、
約6ヶ月の間、殆ど同室で過ごした濃密な時間が、
その後の私の人生に、決定的な影響を与え、何か運命的なものを感じずにはいられない。

リュブリアナ大会に向けて我々は、あらゆる手を尽くして、第8次まで合宿を行なった。
常に男女選手一緒で、そのときの訓練内容は、凄まじく、激しいものだった。

選手団のメンバーも良かった。
男子は、木村興治、高橋浩、小中健、野平孝雄、荻村さんが監督兼選手、
女子は、関正子、山中教子、磯村淳、深津尚子というメンバー。

毎日10kmのランニング(たまに、20km)と、各種体力トレーニングをやり、
指導陣からの課題、選手自身の課題など、技術練習が6時間、
カット打ち500本ノーミス、腰に5kgの砂袋を巻いて、1分間に70本の前陣FW、など
真冬の雪が40センチも積もる大雪の日、
当時は暖房もない小学校の講堂で、練炭ストーブを4箇所置いて、
朝の9時から夜中の2時までやったこともあった。

このとき、さすがに私は、真夜中の12時を過ぎた頃
「女子選手もいることだし、この続きはまた明日やればいいじゃないか」と提案したが、
彼は、「いや、この課題を達成するまでは徹夜してでもやらせる。
それが本人の今後の人生に必ず活きてくる」・・・と。
私は改めて、荻村氏の選手として、指導者として妥協を許さない執念を思い知らされた。

コッペパンにバターを塗り、牛乳を飲みながらやっても選手の体力は落ちなかった。

ある熱心な卓球ファンのご紹介で、将棋の木村永世名人から「勝負」について、
お話しを聞かせていただいた。
「我々プロ棋士は、一手一手が明日の米につながる」という骨子で、
勝負カン、攻守のバランスなど、非常に参考になるお話だった。

そのとき、「我々は世界一になったとしても、一銭の収入にもならないどころか、
学業や会社での栄進の道を犠牲にして、何故、こんなに人間の限界点を越える程
厳しい訓練に挑戦しているのだろう━」と、全員で話し合った結果、
それは、「人間の文化の向上に寄与するんだ」という結論に至った。

そして、打倒中国を目指して、チーム全員が一体感を持っていたので、不満などは出ず、
素晴らしいチームワークで大会に臨むことができた。

選手は相当、力をつけたが、
結局は、金メダル2、銀メダル2、銅メダル1という結果であった。

当時は、合宿の場所も、財政的な面も、我々二人ですべてやりくりするしかなかった。
しかし、これでは国を挙げて強化する中国には勝てない。
大会後日本に帰ってくるまでの間、荻村さんと二人で話し合った結果、
抜本的な改革をし、年間を通した強化が必要であり、「強化対策本部」の構想や、
将来の日本卓球協会の方向性などを熱く語り合った。

帰国してから、二人で動いて、選手強化のため、抜本的対策が必要であることを提唱し、
理事の方々にも理解を生み、強化対策本部がスタートすることになった。
本部長には、我々の思いを理解して下さる方をお願いしたいと考えた末、
名古屋の後藤鉀二さんにお会いして、我々の願いをお話したところ、全面的に賛同され、
バックアップすることを約束された。

強化対策本部は、日本卓球協会の理事会の下部組織としてではなく、
会長スタッフの委員会としてスタートしたいので、
本部長になられる方は、それなりの資格が必要だった。
考えた末、当時、後藤先生は、東海学生連盟の会長をされていたので、
日本学生連盟の副会長に推挙した。
(当時までは、日本学生連盟の副会長は、関東と関西の会長二名だけであった)
そして日本学生連盟の副会長という資格で、日本卓球協会の副会長に推挙し、
強化本部の本部長にご就任いただいたのである。

それで、強化対策本部(強化主任・荻村)が動き出した。
順調にスタートし、成果も上がってきたが、
後に、「荻村外し」が始まり、途中でうまく機能しなくなり解散した。
もし、荻村さん中心で強化対策本部がしっかり継続していれば、
日本の卓球は、もっと強くなったと、今でも悔やまれてならない。

1980年に、日本卓球協会の専務理事に就任した彼は、辣腕を振るった。
世界的に卓球を普及させることによって、
スポーツ文化を高めていくという崇高な情熱はすばらしいものだった。

日本の強化について彼は、欧米のように、クラブ中心でなければいけないという考えを
持っていた。
私は、日本の社会環境の中では、まだまだ、学生中心のスポーツが続くだろうという
考えがあり、二人で話し合った結果、山の頂きに登る道は異なっても、
共に向う目標は同じで、お互いに努力して行こう・・・ということで、
私は、学生スポーツの発展に尽力し、現在も、日本学生卓球連盟の会長を引き受けている。

1987年に、荻村さんが国際卓球連盟の会長になった後、世界80カ国を行脚した。
それは、世界の、卓球レベルアップのためであり、そういう行動によって、
卓球というスポーツのレベルを上げ、人類に貢献する、という精神があったからだ。

現在、国際卓球連盟には、222の協会が加盟しているが、
これは全ての競技の国際連盟の加盟数としてはトップであり、
その礎を作ったのが「荻村伊智朗」であることは間違いない。

ともに戦い、ともに語り合い、理解し合った「荻村伊智朗」という人を
私は、今でも尊敬し、心の友として、真実の友としていつまでも私の心の中に生きている。