20年を振り返り 感謝!

2016/2/01

『20年を振り返り 感謝!』
(報恩一如)

語録(当初は「今月の言葉」)を書き始めて、満20年が経ち、
今月が241号と、新しい一歩を踏み出すような感慨を覚えている。

私がこの語録を書き始めたのは、1996年2月からで、会社の事業も拡大しつつあり、
外部の公的な役職も引き受けざるを得ない状況となってきたため、
明治大学卓球部の選手達と接触する機会が少なくなり、
部員との架け橋にするため、「私のメッセージ」を毎月送ることにした。

振り返ってみると、随分いろいろな角度から、
その時、その時代に起きた事柄をテーマにしたり、一流のスポーツマンや、
一流の開発研究者、学者、経済界の成功者の方々の生き様や、
すばらしい言葉などを参考にして書かせていただいてきた。

元々私は、人前で話すことや、特に文章をまとめるなど、最も苦手な人間でした。

ただ、自分で考えたことや、目標に向って努力することは、
案外粘り強くやれるタイプだったと思います。

その私が、人前で話すことに、ほんの少しでも自信に繋がったきっかけが2回ありました。
1回目は、
大学時代のダブルスのパートナーで、今でも親友として付き合っていますが、
彼は、大学卒業と同時に結婚しました。
当然私が、友人代表として挨拶をしなければならない破目になり、断りきれなかった。
そこで、いろいろ考えた末、「私は負けず嫌いで、人に負けるのが大嫌いで、
特に、彼にだけは何をやっても負けたくなかったので、がんばってやってきた。
だけど、とうとう結婚だけは彼に先を越されてしまった。残念でならないが、
良い家庭を築いて、後で、俺に教えてくれ」というようなことを骨子に話をしました。
この話が出席者の方々に受けて、多くの人から褒められて凄くうれしかった。
2回目は、
私は、大学卒業と同時に、卓球部の助監督となり、3年後の25歳のとき監督に就任した。
そして、関東学生卓球連盟の副理事長を仰せつかった。

その一年後、当時理事長として活躍していた早大監督の三浦実さんが病のため、
長期入院加療が必要とのことで、「是非兒玉に引き受けて欲しい」と懇願され、
何度もお断りしたが、結局は引き受けざるを得なかった。
26歳で関東学連の理事長に就任した。

その初仕事が、関東学生リーグの開会式での挨拶。
当時の会長は、象徴的な存在で、開会式などは出席されず、
殆ど理事長が挨拶から会の運営までを取り仕切っていた。

役員、選手、観客を含めると200名近くいる会場で、あがらないで話すことが出来るのか、
考えただけで震えてきたことを今でも覚えている。
しかし、どうせやるのなら、誰でも話すような一般的な挨拶はしたくない・・・と思い、
選手のためになる言葉を一言でも入れたいと思い、10日程前に原稿を作り、
何度も、何度も読み返し、暗記をして準備をしました。
その結果、本番では、選手の顔もボーとして見分けられない位、あがっていましたが、
何とか思った通りの挨拶が出来ました。

その開会式後、出席した卓球界の重鎮から、
「兒玉君、君があんな立派な挨拶が出来るとは思わなかったよ。良かったね」と褒められ、
本当に心の底から嬉しかった。
この二つの挨拶で褒められたことがキッカケとなり、
人前で話すことに大きな自信につながっていった。

私が物を書くことに、ある程度自信が持てるようになったのは、藤井基男さんのお蔭です。
藤井基男さんは、戦後日本卓球界発展のためにはなくてはならない存在の人でした。
ひらめきと発想と行動力の優れている荻村伊智朗さんが表の舞台のリーダーとすれば、
藤井さんはそれを的確に具体化し、ピチッと事務的にまとめていく、裏の舞台の立役者。
このお二人の絶妙のコンビで、現在の日本卓球界の隆盛を築き上げて頂きました。
このことについて、異論を唱える人は一人としていないでしょう。

荻村さんと私が、初めて監督を務めた
’65年の世界卓球選手権 ユーゴスラビア(リュブリアナ)大会の合宿では、
日本の球史に残る厳しく内容の濃い訓練をやりましたが、その時も藤井さんは、
トレーナーとして、腕が腱鞘炎になりながら、選手のためにご尽力いただきました。
この大会で、深津尚子選手が世界チャンピオンになれたのも、
藤井さんのご尽力大なるものがありました。

また、私が総監督兼男子監督を務めた’75年の世界選手権インド(カルカッタ)大会では、
藤井さんに指導陣として加わっていただき、合宿中も大会中も常にツインルームで同宿し、
毎日毎日、日本卓球界の将来について語り合ったことも、忘れられない思い出です。
そして、その翌年、
当時、日本卓球協会会長の永野重雄さん(日本商工会議所・会頭)の要請があり、
藤井さんは、一年間の予定で、サウジアラビアへ卓球指導のため出掛けました。

その間、何度となく手紙のやり取りをしましたが、
藤井さんは「兒玉さんがこんなに文才があるとは、全く知らなかった。
日本の経済環境や卓球界の情勢が手に取るように解って嬉しい」などと返事をいただいて、
その一言がどんなに嬉しかったことか・・・

藤井さんは、大局的な見地から、企画したものを具体化したり、事務能力が抜群で、
特に、文章能力に優れていて、日本卓球史をまとめて下さり、
その他「卓球知識の泉」「卓球まるごと用語辞典」など、数々の著書を出版されています。
そのような専門家から、褒められたことで、大きな自信につながりました。

私の人生にとっては、この三つの事例が鮮明なキッカケとなって、
その後に大きな影響を与えていただきました。

70年代後半から、今日までの間、ピークの年には、依頼された講演会での講演4~5回、
会社の行事で15回のスピーチ、結婚式の挨拶が40数回、
各競技部の優勝祝賀会、周年行事や、所属団体の挨拶など30数回、
各競技大会の開会式での挨拶10数回、など、年に100回以上ありましたが、
余り苦にならずに毎年こなしてきました。
これらの会合は、100名~600名の参加者がおられますので、
私は「同じ話はしない」ということをモットーにしておりますので、
しっかり準備をしてやってきました。
私は、能力がないので、その場で、思い付きで話すことは出来ません。
また、思い付きで話すと、以前話したことと同じ話しになることを恐れたからです。
そのために、私は多くの勉強をさせていただきました。

新聞・雑誌・書物・テレビ・ラジオなどで、気になった記事や、報道、
講演会や、人と会って感銘を受けたり、興味を抱いた話などメモを取り、
切り抜いたりして、参考にさせていただきました。

今回、20年間を振り返って、この「語録」をパラパラと読み返してみたところ、
「結構中身の濃い、いい話があるな(笑)」と嬉しくなったりしました。

今では、この「語録」は、スポーツ界の方ばかりではなく、
いろいろなジャンルの方々が、毎月楽しみにして読んでいます・・・と、
メールや電話をいただき、 本当に有難いことと感謝しております。
それ故、まだしばらくは、続けなければならないかな━と思っている今日この頃です。

また、本業であるスヴェンソンという会社を始めて、30年が経過しました。
私みたいな欠点の多い人間が、本体事業67拠点と、9社の企業グループを経営し、
曲がりなりにも、成長・発展させてこられたのは、
日頃より、ご愛顧をいただいているお客様と、社員のヤル気と情熱のお蔭です。
私の意志を継いで後顧の憂いなく託せる後継者に譲ることも出来ました。

さらに、卓球で体験したことが、私の企業経営の根幹を支えてきました。
“努力は才能に優る”  “絶対諦めない執念”  “思いは叶う” 
“感動は次の感動を生む” など、挙げればキリがありません。

そして、何といっても人間関係です。
素晴らしい方々と出会い、ご指導いただき、
今日まで、半世紀以上に亘り、歩んでくることができました。

人と人とのつながりには、個人的な意志を超えた大きな縁の力が働いています。

そのご縁のあった皆さんに、感謝の気持ちを込めて、
今年の書初めは、『報恩一如』 としました。

恩 とは ・・・ していただいたことを思い出し、それらへ感謝する、
これが報恩だと思っています。

一如 とは ・・・ 一は、不二、唯一絶対の真理  如は、不異の意味 異ならないこと、
要するに、絶対的に同一である真実の姿━という意味の仏教用語です。

出合った方々に感謝 卓球界の皆さんに感謝 お客様皆さんに感謝 社員の皆さんに感謝
この一年を、そして、これからの人生を「報恩一如」で、歩んでいきたいと思っております。

今後共、ご指導を宜しくお願い申し上げます。