人生に影響を与えた2つの大会

私は1972年、第一回アジア選手権大会(於:北京)日本チームの総監督兼男子監督として参加した。

この時代の団体戦はリーグ戦方式で、予選リーグで勝ち残った8チームによる決勝リーグであった。

日本男子(長谷川・河野・田阪選手の布陣)は事実上の決勝を中国と争い、大激戦の末、

十数年ぶりに、5-3で中国を倒した。

そして日本にとって最終戦となる朝鮮との試合に臨んだ。

しかし長い間、日本の卓球界にとっては余りにも大きな壁として立ちはだかっていた中国に勝った為、選手達も、私自身にも、ある種の虚脱状態ともいうべき精神状態が心のどこかに

起きていたのであろうか....

その朝鮮戦で、なんと1-4でリードされてしまった。

しかも選手は全く普段の力が発揮されずに、ずるずると追い込まれていった。

もう一点取られれば終わりである。

そこで私はベンチの後方に選手を集め、

「今迄、我々は真夏の、あの暑い体育館の中で、厳しい合宿訓練を何回もやってきた。

そして、君達の努力で中国に勝った。

しかし、ここで朝鮮に負けたら、その勝利はなくなったと同然だ。

この試合に限っては君達の力が出ていない。

勝敗はどうでもいいが、気持ちを切替えて思い切ってやろう。

そうすれば必ず道は開けてくる。」 とハッパをかけた。

そこから4戦連取して大逆転を演じ、日本は7戦全勝で優勝したのである。

心・技・体のうち、技術・体力がどんなに優れていても心理面で守りに入り、

消極的になったり、勝ちたい気持ちばかりが先行したり....

そういう心の状態によって、技術的にも動き(体力)の面でも大きく影響され、左右されてしまう。

ということを改めて体感させられた。

やはり平常心というものが、いかに重要であるか....ということ、

そして前向きに積極的に気持ちを切替えることによって、見違えるように動きが良くなり、

持てる力を十二分に発揮出来たということを、

あの北京首都体育館の一万人以上の大観衆の中で成し得たことは、貴重な体験となった。

その翌年(1973年)、世界選手権大会がユーゴスラビアのサラエボで行われた。

やはり私は総監督兼男子監督として参加した。

予選リーグでイングランドに5-4、ユーゴに5-4と大激戦の末、

決勝リーグ(ベスト4)に勝ち残った。

そして中国との決戦。

最終調整練習のとき、オーダー交換の10分前に河野選手がメガネを落として割ってしまった。

いってみれば、もうコンディションなんていうものはメチャメチャ。

どこかに吹き飛んでしまった状態で中国との決戦に臨んだ。

物事はなんでもそうだと思うが、ベストコンディションで何かをやれるなんていうことは、そうはない。

スポーツの世界では、特にそういうことが多く、世界選手権などでチャンピオンになる最後の場面、最後の部分というのは、もうそれこそ傷だらけ、疲労困ぱい、コンディションなどは最低・最悪の状態になっているものである。

しかも勝たねばならない。

この時、結局日本チームは長谷川・田阪・高島選手という布陣で、河野選手抜きで戦った。

9試合中、8試合がセットオールという熱戦で、夜8時に試合が始まり、終わったのが午前1時だった。

試合中、私は「これで勝てた」と思うことが3回あった程の大激戦だったが、結局4-5で敗れた。

世界中の役員、選手、ユーゴの1万人を越す全観衆は、

「こんな素晴らしい試合は永久に終わって欲しくない」 と言っていた.....

と共同通信の特派員として派遣されていた記者に試合後聞かされた。

この大会での団体戦メンバーは、長谷川・河野・田阪・高島・今野選手だった。

全員レベルが高かったので、私は決勝リーグまで、少しでも体力を温存する為、

5名の選手をフルに起用して予選リーグを戦ってきた。

にもかかわらず、高島選手(当時、日本チャンピオン)は、中国との決戦の翌日、

スウェーデン戦で腰を痛め、中国の医師にハリ治療を施術して頂いたりしたが、回復せず、

残念ながら個人戦を棄権して一人帰国したのである。

高島選手は、人並み以上に良く走り、体力トレーニングも重視して、鍛え抜いてきたにもかかわらず、このような結果になる程、当時の世界選手権は、過酷な体力と精神力を要求されたのである。

その後の世界選手権でも、各国のエース級選手が団体戦でダウンしてしまうケースが続出して、

男子のスウェースリング方式は、余りにも過酷過ぎるということで、

現在の試合形式に変ったのである。

この2つの大会は、私の人生にとって非常に大きな影響を与えてくれたと、

選手にも応援して下さった方々にも心から感謝している。

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