「ひたすら」に努力し、他人を支えられる人になろう

2001/9/01

とかく人は華やかなものや美しいものに目を奪われ、それを支える地味なことには気付きにくいものだ。
花が美しく咲いていられるのは、根が目に見えない土の中で養分を吸収しているからである。
人間も同じで、「縁の下の力持ち」といわれるように、どこのチームでも職場でも、
陰で人を支えたり、一人でコツコツと努力している人がいて、組織が成り立っている。
「草はいろいろ花よりいいかも」と言ったのは、作家の水上勉さんだが、華麗な上流社会
ではなく、遊女や芸人など社会の底辺で生きる人々を描き続けた水上さんならではの、
思いやりに溢れた言葉である。
舞台が華やかであればある程、それを支える裏方の苦労は大きいものである。
私が日本代表監督のときは、「練習相手をしてくれるトレーナーの方達に、常に感謝の心を
忘れないように」といい続けてきた。
人が見ていようがいまいが、自分の信じることをコツコツと続けていく。
陰から他人を支えられる人は、やがて周囲の信頼を得て、
自然に日の当たる舞台へと導かれていくもの…と私は信じている。
過去明大卓球部の栄光の歴史の中で、このように仲間のためを思い献身的に努力をしてきた人達は、枚挙にいとまがない程たくさんいる。
どんな競技でも、見ていて知らず知らずのうちに感動し、応援したくなってしまうことはよくある。それは何故だろうか?
そこには一つのキーワードとして、「ひたすら」というものがあるのではないか。
「ひたすら」という言葉を辞書で引くと、「ただそればかり、その事だけに心が向かうさま、
一途、切に」とある。アマチュアスポーツで、プロ選手にはない感動を与える力があるように、「ひたすら」には不思議な力がある。
我々が今までの人生を振り返ってみても、自分自身を誇りに思えるような思い出は、部活動で「ひたすら」練習に打ち込み、一途に取り組んだ時のエピソードがほとんどではないだろうか?
そう考えると、「ひたすら」は他人に感動を与えるだけではなく、自分自身にとっても良い影響を与えているのだと思う。
しかし我々は社会人になってしまうと、一つの物事に集中する時間を失いがちである。
しかし「ひたすら」に何かをすることをなくしてしまっては、人生が味気ないものになってしまう。
「ひたすら」に何かをする時間がない、忙しい我々だからこそ、逆に自分で自分の行動をマネージメントする能力を身につけて、何かに打ち込む充実感が必要だと痛感している。
私自身も、「ひたすら」さを忘れることなく生きていけたならば、より誇らしく、より楽しい人生が待っている…と基本に戻って、君達の成長を楽しみに、よりよいアドバイスが出来るよう努力していきたい…と思っている。